音の遺産:敏明の物語
第一章:医師の家系
東京の喧騒の中、西荻窪にある工房で、薫るニスの香りとクラシック音楽が静かに流れる中、一人の老職人、敏明が手にしたヴァイオリンヲ食い入るように見つめています。彼の人生の旅路は、世代を超えた物語であり、困難や苦難、そして繊細なヴァイオリン製作に対する情熱に彩られていました。
敏明の物語は彼の高祖父曾祖父から始まります。小さな町の名医だった高祖父の医療の技術は、敏明の曾祖父に受け継がれました。曾祖父は強い意志と決意の持ち主でした。幼少期の敏明にとって、祖父が語る家族の歴史は特別なものでした。祖父が幼い頃、高祖父と曾祖父によって自宅で行われた肋骨を3本取る手術は、家族の医療技術と逆境に立ち向かう不屈の精神の象徴でした。
しかし、家族は不幸に見舞われました。高祖父と曾祖父の死によって家族は崩壊し、長男敏也はまだ19歳の頃に新聞配達で家族の生計を立てることを余儀なくされました。ある日、このままではいけないと悟った敏也は、新聞を川に投げ捨て、友人と共に徒歩で東京へ向かう決意をしました。
第二章:東京への道
東京への道のりは厳しいものでしたが、希望を胸に歩み続けました。東京に到着した敏也は、カットグラスの店で丁稚奉公を始めました。努力と情熱の結果、東京カットグラスという会社を設立し、三越に製品を納めるまでに成長させました。会社は繁栄し、一時は中国に移転するほどの成功を収めましたが、再び日本に戻り、熊本に3000坪の土地を購入して新たな生活を始めました。
第三章:新たな世代
敏明の父は上海で生まれ、その後東京に戻り、熊本で育ちました。教師となった父は、同じく教師である母と共に敏明を育てました。19歳になった敏明は、薬剤師になるために東京にやってきましたが、途中で大学を中退しました。新聞配達をしながら生計を立てていましたが、その過程で自分の真の道を見つけました。
夜、敏明はヘルマン・ヘッセの『荒野の狼』を読みながら、人生の行き詰まりとどうしようもない絶望に苛まれていました。自分の未来に閉塞感しか感じられない日々。そんなある朝、配達された新聞の三行広告に目に留まりました。「バイオリン製作者募集、22歳まで」。その求人広告は敏明の運命を大きく変えました。その朝敏明はすぐに電話をかけ、文京楽器に赴きました。ちょうどその時、彼は22歳でした。
第四章:文京楽器での修行
文京楽器では、厳しい日々が続きました。名器を毎日のように見ることができ、はじめ給料は56,000円と非常に安かったものの、名器に触れることができる環境は敏明の勉強にとって非常に貴重なものでした。ある先輩が「ここは日本一の工房だよ」と言った時、敏明は半信半疑でしたが、後に振り返ってみると、それは真実だったのです。多くのストラディバリウスを含む名器に囲まれた環境は、敏明にとってかけがえのない経験となりました。厳しい修行は10年8ヶ月続きました。
第五章:ベルク・バイオリン工房の誕生
11年後、敏明は自身の工房「ベルク・バイオリン工房」を西荻窪に開きました。33年間、彼は情熱と精緻な技術でヴァイオリンを製作し、日本で最も優れた製作家の一人となりました。しかし、心臓手術とその後の脳梗塞により、身体に障害を抱えることになりました。それでも、敏明の心は折れませんでした。
祖父の敏也が東京まで歩いてきた不屈の精神と、家族に受け継がれた忍耐強さに励まされ、敏明は自身の技術を磨き続けました。特に、古いヴァイオリンの塗装技術の開発に情熱を注ぎました。身体の不自由さを感じながらも、彼はその技術を追求し続けました。
第六章:再生医療への希望
敏明は再生医療の進展に希望を抱きながら、日々の仕事に全力を尽くしました。ヴァイオリン製作は彼にとって単なる職業ではなく、生きる支えであり、家族の歴史と自身の人生の証でした。工房で作り出されるヴァイオリンは、一つ一つが彼の旅路、家族の遺産、そして不屈の精神の結晶でした。
敏明は、将来のシンギュラリティを待ち望みながら、再生医療の進展によって再び自身の身体で自由に制作修理ができるようになることを信じています。それまでの間、彼はヴァイオリンのオールド塗りの開発に全力を注ぎ、日々の創造的な仕事に喜びを見出しています。毎日が新たな挑戦であり、アイデアに満ちた敏明の人生は、これからも続いていくのです。
2024年9月